です昭和51年08月01日 月次祭
この月も心行から心行に明け暮れて終わりました。本当に熱烈な皆さんのご修行ぶりでありましたが、今度の修行に一つの特異性というか、特別なものを感じたのは、もうそれが御道の信心を頂いておる者、いや合楽に御縁を頂いておる者の当然の修行である。日頃は出来んから、せめて夏の修行だけでもと言う様な雰囲気が、一杯であった事でしたですね。それが私は大変有り難い。無理のない実を言うたらもう皆さん、福岡朝の御祈念参ってみえらてから、帰ってまた1時の御祈念に出てみえられる。
飯塚、直方、あちらの方からもやっぱりそうでした。もう本当に沢山の時間をかけて、そして僅か30分余りの心行を頂かれるためにおいでられる。それが本当にこうあのう無理がなくて、もう本当に当然の事の様にして出来たということが、今度の夏期心行の特異性であった。只今あのオリンピックが毎日テレビで報道されております。ちょうどその日に私がテレビを見せて頂いとりましたら、日本の女子バレーボールのチームが、それこそ気持ちのよい勝ち方を致しましたですね。いわゆる金メダルです。
もう本当言うたらオリンピックで金メダルを取ると、しかもあれだけの人数のものが一つになって、その金星を得たのですから、もう大変な感動でそれこそ抱き合って泣き合うようなシーンが感じられ、あの思うておったんですけれども、そげなだんじゃなかった。ただにこにこしておるというだけでしたねえ。アナウンサーが言っておりました。「感激の勝利ではなくて微笑みの勝利だ」と言っておりました。もう当然勝つ自信満々とした、私は試合ぶりであったと思うんです。
また結果もそうだったです。だから合楽の方達の場合もそう言う様なですね、言うならば心行というものがです、修行というものがこんなにも間違いのなく、有り難く神様がお受け下さるものなんだと。ですからもう当然の事として、夏期心行がそれこそ会堂が割れんばかりの勢いを持って、ひと月間いやもう増々そのう勢いを増して、終わらして頂いたということであります。
先月はいよいよ太くなろうと言う、まぁスローガンを焦点にお互いが修行さして抱きました。太らなければ駄目だと。大きなおかげを頂きたい。29日の日に、日奈久教会の富永先生が毎月月末お礼に出て参ります。「先生もう今月という今月は、信者の上にも教会の上にも、もう本当に難儀な問題が続きました。もうこの胸にはばからない様な事ばっかりで」と言うんです。それで先生あんたんとこではあなた、今度はお屋敷を買わしてもらう、御造営が思い立っておられると言う様なお届けがあっとるのですから。
今が例えば10畳か12畳の御広前、なら50畳の御広前に今度変わるためにはねえ、やはり大きくならなきゃ太うならなければ、受け物を頂かなければそう簡単に神様がね、10畳がたしかなか者に何の50畳のおかげを下さろうか。してみるとあんた有り難い事でしょう、もう今月は合楽ではもう太くなろう太くなろうという焦点をもって、皆んなが信心さして頂いておるが、やはり太くならせて頂かねばたち行かないような、やはり問題が教会にも起きておる、信者さんの上にもやっぱ起きておる。
いわば生きた神様が生きた働きを示しておられる印だから、これはお礼申し上げないかんですよ」ちいうて申しましたら、「もう先生本当に」後からもう夕食を頂く時でしたけれども、もう「今日のごと胸が一遍にあのう親先生の一言で、胸がすっきりした事はありませんでした。ほんなごと大きな願いを持ちながら、大きな心に成らして下さろうとする神様の働きを、困った事難儀な事だと言う様な受け方では、神様に対して相済まんということが、分かった途端に心がすっきりした」と言う訳なんです。
今月はその太くならせて頂いたということだけではなくて、その太い心に一つ豊かな心を頂こうというのが、今朝から頂いた事でした。太く豊かにならないけません。そして真善美に輝く、優雅なおかげになっていかなければいけません。善導寺の原さんのところに書いて差し上げておる色紙に、「私は豊かな心の世界に住んでおりますから、豊かなものやら金にも恵まれとります」という意味の事を書いて差し上げております。私は豊かな心の世界に住んでおりますから、豊かなものにも豊かな金にも恵まれとります。
お金は豊かであり物は豊かでありましても、心が貧しかったら豊かな生活、心からの優雅な生活は出来ません。問題はやはり心が基盤基礎であります。今月はまぁいよいよ豊かにならせて太くならせて頂くということは、卒業したという意味ではないけれども、太く豊かにということであります。大きなおかげを願ってるんですから、豊かなおかげが欲しいのですから、やはり心が豊かにならにゃいけません。
明日から新たな共励地区が一ヵ所増えます。日田の奥の玖珠郡という所があります。大変山の中の又山の中だそうです。もう自分の周囲にはもう蕨やら自分方の坪で取れるちゅう位の所らしいですから。下の方が森町でしょう。その森町に今度大分支部の又支部と言う訳ではないけど共励場が出来る。そこに2、3軒の方達がお参りして来るんです。もうこれは一年位前から、是非あちらにそういう、そのお話に来て頂いて、というお話があっておりました。もう再三あっておりましたけれどもお許しを頂きませんでした。
けど先日からそのお願いがございましたら、今度お許しを頂いて、玖珠地区共励会ということになる訳でございます。その中心になる方達が本田さんとか、又酒井さんとかという熱心な御信者がおります。とにかく自分の親戚の者集めただけでも、20名ぐらい集まりますから、どうでもあちらにそのう共励地区を造ってくれと言う様な願いであったんですけれどね。ちょうど4、5日前だったでしょうか、玖珠郡の森町からというてまぁ60位な実に上品なお婆さん。
「何でおみえられましたか」ち言うたら、自分で自家用車ですから、自分で自分の運転してきたと言われるのです。なかなかモダンなお婆さんだなと思いました。話を聞くと難儀な問題なんです。それがどういうことで合楽を知られたかというと、すぐ近所に酒井さんという製材所があります。今申します酒井さんなんです。その酒井さんのまぁ紹介で実はお参りさして頂いたと言うて参ってこられました。
今日その酒井さんたちが一家中で親子5人連れで参ってきてから、「先生実はこうこうで参ってきたでしょうか」と。「参ってみえましたよ」「あれはとても有名な女医です」。お医者さん。すぐ自分とこの近所にあるお医者さんだそうです。ところが息子さんの跡継ぎの問題で、大変難儀な問題でまぁお願いにみえられた訳でございます。「はぁそうやったばいの。えらいその御理解が高尚な御理解じゃった」と言うて、それからお書き下げを頂いて、そのお書き下げを頂いた事にえらく感動して帰られました。
それがどういうことで、そのう合楽にお参りしてみえられましたかと申しますとね、先日からその酒井さんがあのうあ機械でこの親指をはさんで、このびっちゃげてしもうた訳です。それですぐその御神米を、ずぅとお神酒さんをお祀りして、すぐ電話でお願いをして、その病院に行った訳です。ところがこれはもう切った方がよかて言われたんです。ところが「いやあ金光様にお願いしとるけん切らんでよか」ち。「んなら注射だけしとこう。とにかくなら明日又来てみなさい」て言われるから、又翌日やらして頂いた。
そしたらもうそれこそもうびっくり、お医者さんがびっくりされるように、なるほど切らんでよいおかげを頂いとった。「あの白い紙はなんじゃったか」「あれは御剣先様であった」と。「私はもう感心した」と。あんたが参りよる金光様は、どこの金光様か知らんけれどもですね、あぁいう大怪我をしながら、あのう金光様にお願いをしとるけん、切らんでんよかと安心しておれるという、その心を与えなさる神様ちゃどげか神様じゃろか。私も昨日これがおかげを頂いたら、私も参ろうち思いよった。
だからどうでん紹介状を書いてくれち、言わっしゃった。「まぁ紹介状はなかったっちゃよかけんで、私が言うたと言うて参りなさい」というのが、お参りのその切っ掛けでした。信心をさせて頂いとるならね、「神様にお願いをしておるから」と、安心の頂ける位の信心は頂きたいですね。もうそれこそほとほとそのお医者さん、たまがっとられる。という話を今日酒井さん参って来て言われるんです。あくる日行ったところが、成程切らんでよかったの。
こりゃあんたもうこのまま良うなるというおかげを頂いとる。今日私先生の握ってくれという。こう親指握らして頂いたら、まちっと冷たい感じだけれども、おかげ頂いとる。先日から「濡れ手で粟のつかみ取りになる気になるな」という御理解を頂きました。時に、御道の信心をさせて頂く者が、一遍に分限者になろうと言った様な考え方を、もし持っておる人があるとするなら、これは先ずおかげを頂かんと思うて間違いない。一遍にむしろ人よりも一年遅れて分限者になる気になれとこう仰っておられる。
ですから百万円、今は百万円じゃないでしょうね、一千万くらいかも宝くじがあります。だから宝くじども買おうという根性がある間は、先ず絶対金光様の信心じゃおかげは受けられんということが分かります。目先目先のおかげは受けますよ。どげな欲な人でもどんな悪い人でもおかげを受けますけどね。言うならば今日私が申しますようなね、いよいよ豊かな優雅なおかげ。それはいよいよ自分自身の心が豊かになる。お金がなからなければ優雅になれないということは絶対ないのだ。
皆さんの中にもです、宝くじでも当てようと言った様な根性がもしあるなら、もう早速それは改めなければいけません。そりゃもう金が足りない。ここに百万円あったなら、一千万円あったならと思う場合もございますけれども、それを百万円の宝くじにでも頼るような心は、先ずおかげの受けられないのだと知らなければいけません。そして人より一年遅れた遅れて分限者になるような心持を造らにゃいけません。それがですいうならば私が豊かな心にならんと、やはり焦りが出て来る訳であります。
そこで豊かな心にならせて頂くということは、今日繰り返しお参りになる方達にお話した事でしたけども、祈願詞の中に日々の御礼申しつつと言う所がございます。「尊き天地書附をわが信心の要としてとこう、日々の御礼申しつつ」という、私はそういう心の状態が開けてくる。そういう日々の信心生活が要るということでございます。日々の御礼申しつつであります。それがですそれこそ夢のようなおかげばかりを願っておったら。
何時まで経っても何時まで経っても、おかげにならない。いやいくらおかげを頂いても、何時もおかげが頂き足らん様なものだけしか残りません。けれども今日只今、こうして御生かしのおかげを頂いておる、もう明日食べるものが例えなくっても、明日を信じて生きていくという心が、豊かな心だと思うです。私共の過去においては、そういうことがいつもでした。「もうお父さん今夜お粥さんみんなしてしもうたが、もう明日はないですよ」と言う訳です。
けれども私はそういう時に「そりゃどうかな隣から一升借ってきとけ」てんなんてん言うた事は一遍もありません。「もう今日までしかも家族中の者がお粥さんでも頂かせて頂いたということが有り難いじゃないか」とまぁお礼を申し上げて、明日の事は明日の事。さぁ御祈念でもして休ませて頂こうと言うのですから、不安もなからなければ心配もない。もう必ず明くる日はやはり一日食べなかったというな事は、一つもございませんでした。神様がねもうそれは不思議な不思議な働きを示して下さって、おかげを下さる。
「そこでいよいよ神様を信ずる心が強うなれば強うなるほど、私共の心はいわば豊かになって来た訳でございます。不安がない心配がない。そういう豊かな心の上に、しかも神様が確かめられた上にも確かめられて、おかげを頂いてまいりますところにです「日々の御礼申しつつ」、そこにはいわゆる「尊き天地書附をわが信心の要」としての生き方であったからでございます。
私は今日ここで、御祈念を仕えさして頂きながら、いつもこうやって座っとります。もう皆笏の持ち方が悪い。あらこれ横どるこげな風にしとるとがおると、なかなか行儀よう持っとるとは一人もおらん。だからすんだならば口上言わないかん、という様な事を考えよる。それはいかに自分がお祭りを仕えておりながら、自分自身が不熱心であるかという事なんですよね。人の様子ばっかりが見えよるとですから。
だからもう今日からは向かいの人が、どんなにいうなら行儀の悪い座り方をしとろうが、笏の持ち方をしとろうがです、それが目つかんように、自分の心だけを見ておかなければいけないなと、今日は大変それを思いました。もう例えば家中の皆んなあれがどうのこれがこうの、あれがもちっとあるとこういいばってんち。なんの自分の心の破れから相手を見ておる訳でなんです。自分がそれこそ「尊き天地書附をわが信心の要」としておるならばです、例えば不行状なものがそこに見えても、良くないものが見えても。
それを自分の事として、相手じゃない自分の心の上に頂かせ頂く信心の糧とするという生き方こそが、和賀心天地書附を言うならば基軸にして、尊き天地書附を我信心の要としておるという生き方なんであります。そういう生き方をさせて頂く、私は稽古が本気でなされていくときに、心はいやがうえにも豊かになっていく事だということでございます。その豊かな心に頂けるところのおかげ、それが私はいよいよ真善美の世界に住めれる、いうなら優雅な生活の出来れるおかげの基である。
お金が貯まったから優雅な生活が出来とるようにあっても、心が貧しかったらもうそれは真善美に適うたということにはなりません。先ずは自分の心。今月はいよいよその豊かな心に取り組ませて頂き、それこそ人の非が見える様な時には、いよいよ自分が天地書附を基軸としていない、自分の信心の要としていないと悟らして頂いて、自分の信心が心が豊かになる事の、それを師ともさせて頂くおかげを頂きたい。
先月に引き続き太くそして豊かに、いよいよ大きなおかげを蒙らせて頂きたい。そういう大きなおかげを例えば百万円じゃないね、宝くじくらい富くじくらいなものによって、大きなおかげを頂こうなどと言う様な心がもしあるならばです、信心のないものはいざ知らず、合楽に御神縁を頂いておる程しの方ならばです、そういう考え方先ずは捨てなければいけません。そして今月今日只今こうやって御生かしのおかげを頂いておるということにでもです、はぁ今日は大変修行の一日でございました。
けれどもおかげを頂きまして、それを信心で言わば天地書附を基軸として、その問題の中におかげを頂きました。それこそ「日々の御礼申しつつ」であります。もうこの「日々の御礼申しつつ」という信心がでけたらね、願う事やらお詫びなんてものは、影が薄くなってくるでしょう。でもこの「日々の御礼申しつつ」信心生活が出来る様なおかげを頂きたい。それには先ず豊かな心を頂こう。そのためには天地書附を芯に、その要としての生き方頂き方をいよいよ身に付けて、豊かになっていく太って行く事が。
信心の喜びとしていけれる。人より一年遅れてということは、もう私はこれは豊かな心だと思います。あんやつにどうして負けるかと言った様な事ではね、本当な事じゃない。もう人より一年遅れて分限者になる気。自分の心がまずは分限者にならなければいけません。豊かな心を頂かしてもらう信心を、いよいよ身に付けていきたい。今月はそこにぎりぎり焦点を置いておかげを頂きたい。いよいよ今月は夏の祈願大祭の月でもございます。大祭月ですからそういう有り難い豊かな心をもって。
祈願祭に臨まして頂きたいと思います。明日からは丸少が御本部参拝を致します。御初穂を出される方はどうぞ早めに。それから親教会の御大祭がいつも8月の3日でしたけれども、都合で1日早めて明日ある事になりました。10時半からでございますから何時もの様に、原さんのお宅に皆さん集まって、そしてお参りを頂きたいと思います。ご参拝の出来ない方は御初穂を出して、事務所に出しておいて頂きます様にお願いを致します。 どうぞ。